ここで目覚しい発展があったのですね。
これには驚くばかりです。
父は乙未事変(朝鮮国王王妃閔妃暗殺事件)に加担した軍人・禹範善(ウ・ボムソン、???)。範善が日本に亡命し日本人女性・酒井ナカと結婚、日本で生まれたのが禹長春である。出生地については東京説と広島説がある。育ったのは広島県呉市だが、範善は日本に協力して王妃暗殺に関与したため朝鮮人の中でも裏切り者とされ1903年、禹が6歳の時にかつて閔妃に仕えていた高永根に呉で暗殺された。
禹は苦学し広島県立呉中学校(現広島県立呉三津田高校)を卒業。数学が得意で京都帝国大学工学部を目指し高等学校(旧制)進学を希望したが、朴泳孝の支援で学費を支給する朝鮮総督府から東京帝国大学農科大学への進学を指示されそれに従った。1919年に同校を卒業。
日本での活動
卒業後、農林省西ヶ原農事試験所(東京都北区西ヶ原)に就職。1923年の関東大震災による朝鮮人弾圧など過酷な時代、朝顔の遺伝研究などに没頭した。1924年、隣家の家庭教師が縁で新潟県出身の日本人女性・渡辺小春と結婚。当時の状況から父の恩人で朝鮮人亡命者を支援していた須永家に養子に入った。生まれてくる子供達は日本名を名乗らせ日本人として育てる決意をした。自身の日本名も須永長春となったが、この後生涯にわたり自身は名を禹長春のまま通した。
1926年埼玉県鴻巣試験地(鴻巣市)転任。ナタネの研究を主に行ったが、この頃発見したペチュニア(つくばあさがお)の全八重の作出法(完全八重咲き理論)を元に坂田商会(現サカタのタネ)創業者・坂田武雄がこれを事業化し会社を拡大させた。また1936年には、論文「種の合成」で東京帝国大学より農学博士号を取得。この論文は「禹長春のトライアングル」とも呼ばれ、それまで地上に無かった全く新しい植物を作り出す可能性を裏付けし世界的にも育種学の古典として今日でも名高い。
しかし、農学博士となっても技手止まりのままの不満からか1937年同社を退社。タキイ種苗の瀧井治三郎が京都府乙訓郡長岡町(現長岡京市)に新しく新設した研究農場の場長に迎えられ京都に移った。ここでは十字花科(アブラナ科)植物の育成を主に、それに伴う花卉類、蔬菜(青物野菜)の育種、植物ホルモンなどの研究で自家不和合性現象や雑種強勢のメカニズム解明に打ち込んだ。これらは京都の千枚漬け業界の発展にも貢献した。1942年から刊行された雑誌『園芸と育種』(?1944年)の出版にも尽力。1945年、終戦のあと同社を退社。この後4年半職に付かず過ごす。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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