ケーニヒスベルクとしての歴史
現在カリーニングラードと呼ばれているケーニヒスベルクは、1255年にドイツ騎士団によって建設され、ハンザ同盟に所属するバルト海の貿易都市となった。街はポーランドとリトアニアを流れるプレーゲル川(現・プレゴリャ川)の河口部に位置し、中州であるクナイプホーフを中心に広がり、プレーゲル川流域の物産を集めてバルト海沿岸の諸都市と交易し繁栄した。ところが住民はポーランド王国を支持してドイツ騎士団と対立、1410年のタンネンベルクの戦いの結果第1次トルン和約が交わされ、ケーニヒスベルクをはじめとしたドイツ騎士団領はすべてポーランド王国の属国となる。その後ドイツ騎士団による専制に反発したケーニヒスベルク等の商業都市がプロイセン連合を結成して騎士団と対立してポーランド王国の庇護を求め、1466年の第2次トルン和約によりケーニヒスベルクはポーランド王の直接の所有物となり、住民による自治権を与えられた。
1525年にドイツ騎士団の総長だったホーエンツォレルン家のアルブレヒトが修道会国家を世俗化させてプロシア公領を東プロイセンに成立させケーニヒスベルクはその首都となった。公国の血が絶えると1618年より同族であるブランデンブルク選帝侯のホーエンツォレルン家が飛び地となる公国を同時に治めることになった。1660年のオリヴァ協定でポーランド王国がプロシア公領に対する宗主権を放棄して公領はポーランドから独立、プロイセン公国となり、1466年より194年の間ポーランド王が保障した自治権によって大いに繁栄していたケーニヒスベルクはその自治権を失ってプロイセン公国に隷属することになった。
1701年、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世は神聖ローマ帝国の外にあたるケーニヒスベルクで王に即位、フリードリヒ1世となりプロイセン王国がこの街で誕生した。この時期、ケーニヒスベルク大学などを擁する教育と研究の中心地でもあり、イマヌエル・カントら多くの学者を輩出した。19世紀にプロイセン王国を中心にドイツ帝国が形成されると、その一部となった。1848年にはヨーロッパ市民革命のプロイセンにおける中心地となり、王侯貴族の支配に対して商工業者を中心とした市民が立ち上がり、大規模な抵抗運動を行った。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
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